読売新聞社のYOMIURI ONLINEに興味深い記事が載った。記事のタイトルは「「フランダースの犬」日本人だけ共感…ベルギーで検証映画」。俺はTVドラマの「フランダースの犬」を観たことがないし原作も読んだことがない人間なのだが、これは状況を調べなければならない、と思った。「日本人だけが共感するようなものがあるわけないじゃん」、というのが、最大の動機だ。
まず、フランダースの犬のプロットを調べた。どうやら以下のようなものらしい。
- 山小屋に放火した犯人として疑われる。
- 絵画コンクールに出品するも落選する。
- クリスマスイブに大聖堂で犬とともに死ぬ。
- 別の場所では、放火の疑いが晴れ、絵画の価値も認められる。
- だが、最後までそのことを知ることはなかった。
この物語の最大のポイント(メッセージ)は2つある。1つは、伝わるべきことは伝わるということ。つまり、放火の疑いは晴れ、絵画の価値も認められた、という点だ。リアル社会では、こうした運の良いハッピー・エンドとはならないわけだが、物語は感動的でなければならないため、ご都合主義的に最終回で「伝わる」のである。これはちょうど、俺が好きな東野圭吾のベスト・セラー小説である「秘密」や「容疑者Xの献身」などと同じ構図である。心地よいお約束の世界だ。
もう1つのポイントは、けれども、伝わったことに気付くことなく死んでいくという、悲劇のヒロイン的な美学である。これは前者の「伝わるべきことは伝わる」ということの強度を増すための演出となる。言い方を変えれば「見返りを求めない行為こそが、真に伝わるべきことなのである」という願いが込められているということだ。別の見方をすれば、「相手に伝わることは重要だが、自分に伝わるかどうかは重要ではない」という、自己中心的な、我思うゆえに我あり的な強引さに訴えかけるということだ。
考えてもみよう。疑いが晴れて絵画の価値も認められ、すぐに捜索されて大聖堂で見つかり、間一髪で生命を取りとめ、大団円を迎えたとする。そんなチンケで軽いシナリオでは「真実や価値が伝わる」ことの「重み」が、まるで感じられないではないか。というわけで、メッセージに重厚性を持たせようと思ったら、ここは伝わったことを知ることなく主人公を死なせるしかないだろう。これはハードボイルド系な味付けとして、普通の神経を持った脚本家であれば、何も考えずにまずは標準形として書いてしまう、ありふれたシナリオだろう。
さて、ここからが本題だ。
件の記事では、欧州では原作を「負け犬の死」と見なすため評価されない、としている。これに対して俺は、原作での主人公が15歳という自立した大人であることと、日本のTVアニメでの設定が子供であることとの設定の乖離が原因であると考える。15歳で何とも戦わずに野たれ死んだのなら、確かに精神的に弱い奴として片付けられて然るべきだ。要するに「とっとと街を出て職を探せよ」ということだ。だが、日本のTVアニメでは年齢を下げて、世間に翻弄されるしかない、自分の力ではどうすることもできない子供という設定にすることで、悲劇性を演出している。
記事では同様に、米国においても、過去5回の映画化において、原作とは異なるハッピー・エンドに書き換えられたとしている。ここで言うハッピー・エンドというのは、俺が想像するに、主人公が死なず、疑いが晴れて皆に認められたことを知り、その後に栄光の人生が続く、といったところか。米国においては、見返りが無かったらフェア(平等かつ公正)じゃない、とする教育上の理念が強いように思う。子供向けのコンテンツとしてはなおさらだ。可哀想な話はリアル社会だけにしてくれ、ということか。
記事ではまた、プロデューサの言葉を引用し、フランダースの犬の主人公の死に方は日本人の価値観を体現するもの、としている。信義や友情のために敗北や挫折を受け入れることに、ある種の崇高さを見いだす、のだそうだ。だがここで俺は思う。前述した通り、信義や友情によって成されたことが正しく相手に伝わっている時点で、読者的には主人公の勝利すなわちヴィクトリーは完成しているのである。むしろ自分の死後に相手を悲しませて「誤解して済まなかったよお、一言そう伝えたかったよお」と叫ぶであろうことを想像させる時点で、もう完全なる勝利なのだ。
主人公に成り切った視点であっても、そこに読者や視聴者の視点が多少なりとも入っていれば、敗北や挫折を受け入れることが真の意味での敗北や挫折ではないことが分かるだろう。そのこと(客観視)が原因で死を美化されても困るが、人間の感動のスイッチなんてもんは身勝手で単純なものである。前の方にも書いたが、悲劇のヒロイン/ヒーローになり切ることは、実に心地良いものなのだから。
で、俺なりの結論だ。水戸黄門にせよスティーブン・キングにせよ出エジプト記にせよ、お涙ちょうだい系の感動ヒューマン巨編やら歴史大河ロマンやらというのは、みんな同じ作りであり、そこに国家の違いはあまりない。強い信念のもとで行動し、社会の不正と対峙し、殺されてしまう/殺されかかるが、最終的には(少なくとも精神的には)勝利する。拷問を受けても最後まで屈することなく死ぬ、とかは、まさに万国共通の勝利の典型例である。っていうか、十字架にかけられたキリストを思い出せ、と言いたい。