アメリカのプロフェッショナルは半端なくプロである。何の話ってプロレスラーの話だ。マイクでの喋りで観衆を楽しませることのできない我々のような日本人がアメリカで成功するためには、英語を喋らなくてもいい代替案を探すより他はない。そして、その代替案こそが、(これは元々はプロレス好きの俺の友人が指摘した凄い真理なのだが)、何も喋らなくてもよい演出、すなわちミステリアスさの演出なのである。
古くにはザ・グレート・カブキ(高千穂明久)、最近ではカブキの子供というギミックでブレイクしたザ・グレート・ムタ(武藤敬司)が、このミステリアス路線の中心にいる。顔にペイントを施して口から毒霧を吐くスタイル。からくりの茶運び人形などと並ぶ、言うならばAPAC(アジア太平洋)の古典芸能というやつであり、まさに忍者である。東洋の神秘を地で行っている、ステレオ・タイプとしての日本そのものがそこにある。
さて、こうした、外国人が日本に対してイメージしているであろう典型としての日本像、これを観察する機会としての映画を、偶然、ビデオで観た。 2006年の映画「BABEL」(バベル)だ。モロッコ(アフリカ)、日本、メキシコ、アメリカという4つの場所の物語(それらは1つで繋がっている)を扱った映画なのだが、この4つのうちの1つが、偶然にも日本だったのだ。「あー、外国からは日本って、こう見られているんだな」と、実に余計な観方をしてしまったというわけだ。
同時に俺は思った。日本人である俺から見て典型的な外国の文化像、すなわちメキシコとアメリカの関係(移民問題)やモロッコの生活などは、ひょっとすると、現地の人から見ると逆に新鮮に映っているのではないか、ということを。メキシコ人は実際にはあんな銃の使い方をしないかも知れないし、アメリカに入国する方向での国境の検問のスゴさも、すべては今までの映画の中だけのことで、ちょうど日本人が全員出っ歯でハゲでカメラを首からぶら下げているわけではないことに通じるのではないかと、余計な想像を働かしたのだ。
俺から見ると、メキシコやモロッコの、竹を割ったようなシンプルな分かりやすさと比べて、日本の採り上げられ方は、これはもう日本びいきのフランス人が映画に関わってるじゃないのかという感じの、アメリカにおいては絶対に評価されないといった感じの、難解路線の脚本とカメラワークである。ホントに同じ映画か、と疑ってしまう。別々の脚本と監督と美術スタッフが撮影した異なる映画をミックスしたような、そんな作り。実際にはこんなシーンはないものの、あたかもスロー・モーション映像のバックに、音楽を逆回し再生した効果音が入ってるような、あんな感じの、実験映画路線のテイストである。
この映画の中には、日本人の俺からみて圧倒的に非日常な日本がある。でも、ヨーロッパな人、特にフランス系の人は、こういう風に日本を見ているような気がしてならない(というフランス像を、日本人の俺が持っている)。自分が日本人でなければ、もっと先入観なく観ることができるのかも知れないが、しかしやはり、この映画のようなフランス調の日本像は、多くの日本人(やアメリカ人)にとっては難解で退屈なものだろう。冒頭で示したプロレスラーのミステリアス路線が誰にでも分かりやすくキャッチーでポピュラーであるのに対し、こちらのフランス調の日本像は、どうにも分かりにくいという宿命を持っている。
どう回り道をしても、要するに、やはりプロレスは凄い、という結論に辿り着いてしまうわけである。