「ドラえもん」の登場人物はみんな、個性豊かで、キャラが立っている。スネオとジャイアンを見れば、納得してもらえることだろう。実は、アメリカの映画の世界でも、こうしたベタなキャラを活かして成功した例がある。「インディペンデンス・デイ」の大統領は、あの感じでなければならなかったし、「スターシップ・トゥルーパーズ」の主人公やガール・フレンド、軍隊の教官も、あの俳優達でなければならなかった。
そして今回、俺は、ついに「ドラえもん」を超えるキャラ映画を観てしまった。その名は、「アメリカン・ビューティー」。俳優のるつぼ、としか言いようのない、あまりにも凄い脚本と俳優とのマッチングに、ただうなってしまうばかりだ。脚本の上でのキャラ設定と寸分たがわぬ俳優たち。このあたりがアメリカの層の厚さなのだろう。誰一人として無駄な登場人物はおらず、誰一人として違和感のある人物はいない。「人は、見た目ですべてが分かる」、といわれるが、まさにその通りだ。
もの凄いキャラという意味では、ジャン=クロード・ヴァン・ダムが出演していた実写版ストリートファイターIIもまたトンデモナイのだが、アメリカン・ビューティーのそれは、実写版ストIIを遥かに超えている。特に隣人がもの凄い。大佐と、その息子だ。役作りのために整形手術をしたとしか思えない顔立ちだ。ある種の「なりきり」が自己の性格にまで影響を与えているのではないかと思うほどに、演技っぽくないのであった。
ベタで大雑把なキャラ設定と、完璧なルックス、わざとらしくて、大げさ。だけれども、描いて表現しているキャラそのものが、愛くるしい典型的な人間像の基本であることが、素直に心をうつ。これはまさに、プロレスとまったく同じなのであった。普遍的で根源的なテーマやストーリも、よく練れている。プロレス好きにはたまらない映画というやつなのだ。
少し真面目なことを言わせてもらえれば、近代アメリカのイメージは、ウォール街やリベラルや無個性やモダン・タイムスのような、誤解を恐れずに言えば、資本(カネ)という素材を生かして完璧に構築された、社会全体主義(左翼)の世界である。俺はこうした近代アメリカを形成してきた雰囲気のことをネオリベと呼んでいる。映画「マトリックス」に登場する、同じ顔をしたコピーが沢山出てくるエージェント・スミスが、このイメージの代表格だろう。まさに強いアメリカの象徴だ。アメリカン・ジョーク以外の冗談が一切通じなさそうな、窮屈なイメージである。
ところが、実際のアメリカには、田舎もある。そうしたアメリカの田舎には、太っていて野球帽やテンガロン・ハットをかぶり、ニューヨークの場所も分からない、愛すべき人間としての、古きよきアメリカ人が数多くいるに違いない。日曜日には教会に出向く。スティーブン・キングのような幼少の記憶を持っていたりする。ガレージにはマッチョな車と、キャプテン・アメリカみたいなバイク。まさに牧歌的なイメージ。ドラえもんに出てきてもおかしくない、ネイキッドな感じの、素朴な風景である。
そして、アメリカン・ビューティー。人はみな素朴で美しく愛すべきキャラだということを、これでもかと表現している。いたるところに美はあるのだ。一言で言えば、人間賛美の映画である。