「リアルタイムな記憶認識の時間軸」という「女性的/私的」な要素があって、けれども訳あって、それは「忍耐や秘密」によって他人には隠されている。そして、最後には他人によってドラマチックに「観測」される。そう、ある1人の記憶の時間軸が、第三者によって観測される、ここにドラマ性が生まれる。多少、悲劇のヒロイン的な後ろ向きの感性がルサンチマンめいているものの、これは感動小説の黄金率である。これまでの人生の流れ、すなわち過去の記憶が余韻を生むというスタイルだ。
さて、東野圭吾の新作『パラドックス13』である。これには困った。何がって、設定上、時間と記憶の連続性が存在しないのである。終章部で、兄が死んだことを何故か直感的に察知する弟とか、その弟が病院の待合室で特定の女の子に偶然遭遇して偶然好意を持つとか、言うならばお約束のドラマ演出がなされるのだが、そこには残念ながら、これまでの約束事であった「訳知りな観測者」が存在しえないのである。自然の支配者として運命をコントロールしているという必然性が無いのだ。
この新作では、人による企て(くわだて)や観測を、100%、否定してみせる。そういう設定なのだから、仕方がない。神の前で、あらゆる人間はプレイヤに過ぎないのである。だがしかし、言ってみれば、これまで感動のツボとなっていた余韻とは、記憶の連続性、すなわち過去にのみ宿るものであった。この一方で、この新作のように、記憶を断絶し、記憶を否定し、まったく新たな、これから始まる未来の人生の可能性に思いを馳せること。これは、清清しく、まさに生の肯定と言えるのではないだろうか。
生の肯定と言えば、言わずもがな、ニーチェである。彼は、当時の教会を、生を肯定せずに価値を転倒させた堕落した存在と見なした。永劫回帰は、彼にとっての、生の肯定のシンボルである。生への意思と、「然り(しかり)」としての死亡。これまでの特徴であったフェミコードが消えうせていることからも、意識的に新境地を目指していることがうかがえる。これはこれで楽しみである。