週間文春の映画評で評判がすこぶる良かった映画「グラン・トリノ」を観てきた。感動のツボを押さえたストーリや、緩急付けたテンポの良い展開、映像の良さ、なるほど、とても面白い映画だった。自信を持って皆に勧めることができる。だが、心の奥底で、妙に心に引っかかるマイナス要因があるのだ。何だろうこの感じは、ということで、少し触れてみる。
映画そのもののキーワード(言葉)はシンプルだ。フォーディズムと星条旗、銃、ポーランド系/イタリア系/アイルランド系の移民とカトリック教会、若い神父と懺悔、朝鮮戦争と贖罪、といったところだ。周辺要素は、ベトナム戦争とモン族とルター派プロテスタント(ルーテル教会)、あと、トヨタのランクルとホンダシビックあたりである。
映画を観て、まず第1に感じることは、こうしたキーワードを補完するかのように、映像と言葉(台詞)の両面で、いちいち説明的過ぎるきらいがある点だ。もっとも、映像はそもそもが時間軸に沿うために無理が出ることはなく、素晴らしい印象を残してくれる。だが、問題なのは、台詞の無理矢理感なのである。
閉じられた空間での、1対1での対話が、異様に多い映画である。1対1の会話というシチュエーションは、メッセージを台詞として語らせるのに、実に好都合なのであった。「まあ、そういう事を語ってもおかしくないシチュエーションだよな。自然であって、無理はないよ」という演出である。だがしかし、その1対1の対話/会話に持っていくための布石作りをしなければならない時点で、すでに無理矢理なのである。
「要するに台詞をしゃべらせたいがためにストーリを作ってたのかよ」という感じが強いのだ。言葉でいちいち説明する映画、それも、テンポの良い、よく考えられた脚本の中での、必然的に用意された会話シーンでの台詞。どうにもこうにも、文句を付けることは出来ないんだけど、でも、何かこう、引っかかるのだ。映像も説明的で重いが、台詞のウェイトがまた重過ぎるのである。
この感じは、そう、TVの連続ドラマの最終回の直前に放送する「今までの回のあらすじと見どころシーンを1時間半でまとめた総集編」に通じるものがあるのである。連続テレビドラマの総集編における編集の技というのは、これはもう脚本の中の脚本と言っても良いくらいの、素晴らしく説明的な出来栄えであることは、誰もが知るところである。そして、グラン・トリノの脚本とテンポというのは、まさに連続ドラマの総集編そのものなのである。
逆に言えば、この映画の設定は、充分に連続ドラマの長さでも通じるのである。例えば、大映ドラマの名作に、スクールウォーズという連続TV番組があった。あのドラマの総集編を2時間にまとめた映画があっても良いだろうし、連続ドラマのスクールウォーズがあっても、もちろん良いのだ。これと同じ理屈で、グラン・トリノの連続TVドラマは、充分に成立するのである。きっといい感動作になるに違いない。
というわけで、グラン・トリノの、言葉の説明が前面に出過ぎる点について書いてみたが、映像については、これがまた説明的/印象的で素晴らしいのである。言葉による説明には、直球ストレート過ぎるがために若干マイナス・イメージを持ってしまう俺でも、映像による説明には甘かったりするのだ。フイルムのような色や、ブレの少ないカメラ・ワーク、ちょっと引いた画角、ラスト・シーンの風景。もう一度観たくなるのであった。
ちょっと言葉が説明的すぎるけど、脚本と映像は素晴らしいので、是非観るべし。