東野圭吾の小説を全て読んだ。後にも先にも、たった1人の作家の作品を全部読むというのは、彼をおいてほかはないような気がする。で、彼の、あまりにも完璧に上手い日本語に慣れてしまったせいか、他の小説が「クソ下手糞で自意識過剰で技術点ゼロ」に見えて、まったく読めなくなってしまったのだ。何を読んでも下手さが目に余るのだ。
彼の小説というのは、テクニシャンでプロで上手くて、とにかく口当たりが良い。脚本家のセンスとかコメディアンのセンスとかをベースとして持っている。文章に特別な思い入れのような力が入ることは決して無く、まずは情景が映像として頭にあり、その映像(絵コンテ)を文章に落とし込んでいるといった感じだ。映画監督で言うならば、岩井俊二の絵の上手さに通じるものがある。
音楽の世界で言うならば、プロのスタジオ・ミュージシャン同士や作曲家などが集まって結成した、真にプロなバンドという趣である。技術と理論に裏付けられている。また、文筆業で言うならば、手馴れたゴースト・ライターの完璧な仕事を見ているようなものだ。さらに、カメラマンで言うなら、長年同じスタジオに勤務しているベテランの風情である。要するに、仕事が緻密で計算され尽くしていて、完璧なのである。
あまりにも上手な日本語に慣れてしまうということは、ある意味、悲劇である。ストーリ・テラー、すなわちガイドとしての技術を、極めて高い水準でしか許せなくなってしまう。こうした弊害が、東野圭吾の小説を読むことで、生じてしまう。そのくらい、彼は完璧過ぎた。もう、他人の小説は、真面目な話、いちいちその稚拙な日本語表現が鼻について、読めなくなってしまっている。
というわけで、東野氏と同じくらいの高い日本語能力を持つクリエータを探す毎日なわけだ。小説界では、いくつかメジャーどころを試してみたものの、やはり他の作家の日本語は彼と比べてはいけないレベルである。プロ(職業家)作家である東野氏と、その他の表現者(アマチュア)である作家との間にある、大きな溝を感じ取ってしまう。強いて言えば、プロの職業翻訳家の日本語は上手であるため、外国の小説の翻訳本は最低限、安心して読むことができる。荒削りな素人臭さが微塵も感じられないからである。
面白くてセンスの良いコントを創造するためには、ある程度自覚的に覚めている必要があるだろう。小説も同じである。完璧に美しい調和、計算され尽くした上手なストーリや日本語や展開の妙を得るには、それなりの基礎体力が必要である。力強い貴重なメッセージを発することは素人でも容易にできることだが、こうした素直な心を持つ素人衆の琴線に触れる作品を計算ずくで作り出せる才能というのは、スタジオ的な反復芸、すなわちアルチザン(職人)の世界なのである。