先日、6月18日に40歳になった。つまり俺は、1968年生まれというわけだ。実は、年齢関係で最近強く思うことがある。我々のような 38~45歳程度に分布する年代というのは、人類の長い歴史の中でも、「原体験としてモダン(近代)を知らない世代」として、特別に貴重な存在なのではないか、ということだ。最初に断っておくが、これは決して差別とか優越感とかの類の話ではない。単なる現象の問題である。
我々の世代の特徴は、近代(または近代主義)を知らずに育っている、という点である。物心付いた時から経済的に豊かであったためか、価値相対主義が一般的なものとして蔓延しており、サブカルチャーとメインカルチャーの区別が存在せず(つまりは全てが単一のカルチャーであり)、人と人とが近代イスタブリッシュメントな価値の下で競争することは無く、全ての人が軽薄で、ドリフ的で、保守的(コンサバティブ)で、ロマン主義で、軽やかだった。人間が本来あるべき姿に近かったと言えるだろう。
よくポストモダンという言葉で形容される時代に、そもそも近代(モダン)の抑圧を受けることなく育った(つまり経験としての近代体験がない)我々は、モダンな人たちが執筆したポストモダンの思想書やらが語っていることを、よくは理解できなかった。「何やら俺たちのことを新たな希望の星のように崇拝しているみたいだけど、単にドリフ的に面白がってるだけだよ俺たち実際」というのが我々の本音だ(だからよく「80年代はスカだった」などと言われる)。戦前に生まれた人の意識を、戦後生まれの人は想像するのが難しい、といったのと同様に、モダンを知らない人がモダンな人の心を想像するのは難しいのであった。
時代が大きく変わったのは、いわゆるバブル経済の崩壊である。あの時期を期に、実質的な放任主義に近かった価値相対主義は、社会によって厳しく取り締まられるようになり、日本は急速に「近代化」(近代への逆行)へと突き進むこととなる。かつては個人の営みであり多少の悪人っぽさを含んでいて純愛と同時にカッコいいファッションとしても両立していた「金儲け」は、90年代においては「GDPに貢献する社会全体主義的な営み」へと格下げになった。時期としては、北米(アメリカ合衆国)の復興と、ちょうど重なる。
我々の世代は、日本が近代へと回帰した時期には、すでに学生時代を終了して就職していた。何とかセーフ(ぎりぎりセーフ)だと言えよう。だが、我々よりも下の世代は、こうした暗黒の世の中を、学生としてリアルタイムに体験することとなった。つまり、我々とは異なり、原体験あるいは純粋経験としてモダン(近代)を肌で感じるハメに陥ってしまったのである。まさに「カワイソウ」としか表現しようがない。
実は俺も、同時期に近代を経験してしまうこととなった。経験とは罪である。知識であれば、自らの意思や思想によって「知識を得ない」という選択を採ることが可能だが、経験というのは「経験したくない」と言っても通用しない。経験しちゃうものはどうしようもない。過去の事実として、すでに獲得してしまった経験は、カウンセリングなり催眠術なりを駆使して、経験の影響を消し去ったり、経験の事実自体を忘却するよう努力するより他はない。
近代を経験してしまう、というのは、皮肉なものである。経験というワードが指し示す対象は、どちらかと言えば前近代(プレモダン)だからである。経験という半ばオカルトな価値を必要とすることなく、理屈の上で善を定義しよう、というのが、近代の近代たる要素の1つだ。もちろん、対象を「知る」ということは肌感覚で理解することを意味し、それはつまり経験が不可欠である。近代について知るということは、近代を経験しなければならない。
不思議なことに、近代に生まれ、近代の価値観にどっぷり漬かった者に限って、知ることに情熱を燃やし、その上位概念として彼らが位置付ける経験を、神秘かつスゴいものとして崇拝しているようである。だが俺は本音で思うのだ。近代などは経験したくなかったし、知りたくなかったのだ。なぜなら自分が育った最高の歴史以外には、あまり興味がないから。